山村暮鳥(やまむら・ぼちょう)は明治17(1884)年、群馬県西群馬群棟高村(現群馬町)で生まれました。
明治35年、洗礼を受けた暮鳥は、明治41年に聖三一神学校を卒業。大正元(1912)年9月、福島県石城群平町(現いわき市平)の日本聖公会平講義所に伝道師として赴任します。
平町での暮鳥は、布教活動のかたわら、活発な創作活動を展開しました。大正2年5月、第一詩集『三人の処女』を刊行し、翌月、教父土田三秀の長女富士と結婚。同年に設立した新詩研究社を編集所として、翌年「風景」を創刊します。大正4年には、当時の詩壇に衝撃を与えた詩集『聖三稜玻瑠』を刊行しました。
一方で暮鳥は、平近郊の文学青年達と交友を深めました。三野混沌・吉野せい夫妻をはじめ、猪狩満直、そして花岡謙二が設立した「群集へ社」では指導的役割を果たします。大正5年に暮鳥が創刊した
「LE・PRISME」には平近郊の文学青年達も寄稿しました。
大正7年1月に暮鳥が平町を離れるまでの5年余は、その40年間の生涯においてもっとも充実していた時期と言えます。
本企画展では、平時代の暮鳥とその元に集まった人々を中心に、暮鳥の生涯と作品を紹介します。