■「風景」へ 市川 政憲
三年前の個展では、流動的な色彩が眼に鮮やかな“Washable Blue”から、奥床しい色味を湛えた地(色身)がマッスとなって起伏する“浅葱羽衣”へと、彼女の絵が本質的なところで変りつつあるのを見たように思う。“washable”とは、その移行を言い得て妙、一つには、洗い流せる色彩を言うと同時に、色彩を洗い流したあとの身(体)について言うことでもあるだろう。“Washable Blue”の薫る風のような「青」から、足元の大地から産まれる若い葱の古代の「青(緑)」へ。バシュラールの言葉を踏めば、われわれを地から離れさせる薫り立つ色彩から、ものを産み出す大地の力を湛えた色身への変化。それに伴い、“浅葱羽衣”では、不思議な筆使いが眼をひいた。筆は前シリーズのようには走らず、滑らず、地を鋤き返すように凝滞する。そこから何かが生成されるかのようなその筆痕は、画布の上で転がす、翻すことによると聞く。地に触れる筆の平が翻る時、地の力が掘り起こされるのを画家の眼は感じ取るのではないだろうか。
色彩の画家と思いきや、この画家は、自然の生成力に応える物質的想像力を筆に託すメチエの人と認識を改める。水と墨との創生劇に干渉する宗達のメチエに惹かれるのも頷ける。それにしても、風神雷神の突然の到来には驚かされる。だが、そのイメージに眼を奪われてはいられない。モチーフはそれとして、この絵の構造、垂直に立ち上がる薄明の壁には、風景の力学が萌してはいないだろうか。(元愛知県美術館館長)