ID:40530
保田春彦 Haruhiko YASUDA
父との対話
会場
南天子画廊
nantenshi gallery
会期
2013・9・24(Tue)→10・12(Sat)
展覧会概要
保田春彦 ヤスダハルヒコ 父との対話
Haruhiko YASUDA
新たに発見された半世紀を遡る自作“父の肖像”について 保田春彦
戦後まだ焼跡の残る東京へ出たのが昭和22年、当時下宿難の頃で東京美術学校へ入ったものの下宿先が決まらず、父の友人宅を転々としていた頃、父の故郷の古刹、紀北の粉河寺との関係で上野の美校に近い、谷中の露伴ゆかりの五重塔の名刹、天王寺住職の田村師を紹介され尋ねたところ、今は使用していない茶室があるので、畳1畳しかないし、又電気が境内蔵まで来ているだけだが、自分たちで工事をしてくれるなら使っていいと快諾された。当時まだ若かった大阪の旧中学時代の同級生梶本兄弟が丁度上京して、新制度の東大独文と弟が法科に在籍していたこともあって、この3人共同で工事を済ませ使用し、卒業まで自由にそこを拠点としていたことがあった。
私が美校3年生の頃だった夏の朝の一時、父をモデルにして半裸像を制作したことがある。助教授からの、その作品を学内にもち込んで研究室で見せてくれとの依頼で、荒縄でむしろに包んで乗車券チッキ (手荷物) として東海道線夜行汽車で運んだことがあった。そのあと持ち帰るにはいかにも面倒で嵩張るので下宿の寺の庵の棚の上にしばらく置いておいたのだ。年月経過して、今日までそのままになっていた。私は10年の留学後帰国して1968年の春頃一度まだ存命だった友人の一人と寺を訪れたことがある。その時は当時の住職田村師は既に亡く、寺の若い僧侶の案内で、現場で旧作をみとどけたことがあり、それを昨今ふと想い出し、機会あれば手元に取り戻し度いと南天子画廊に相談したのが発端であり、このほど旧作の展示となったのである。
昭和33年(1958年)の正月二日、私は午後に出る、神戸港出帆の大阪商船・三井合併最初の欧州航路、貨客船・ブエノスアイレス丸に乗船のため、以後10年に及ぶ渡航の途につくべく、見送ってくれるという家人とともに多くの荷物をつみこんで大型車を手配して、昼少し前に家を出ることにした。そこへ普段の仕事着のままで家の玄関から小走りにかけ出してきた父が、「今日は体調がすぐれないので、家人に見送りを委かせて、自分は家で静養をするから、身に気をつけて行ってきなさい」と一言私に声をかけてくれたあと、そそくさと背を向けて家の方へ帰ってしまった。その時の父のやる方ない淋しさを表わした表情と気持ちを後姿に痛いほど思い知らされて、これが今思うと父と今世の別離となったことをその時、私は気付くわけはなかった。父も大正9年頃、庇護する人の扶助から留学の途についている。その時の終生言葉の端々にいつも出てくる良き理解者としての母親との別離の情景を想い起していたのかもしれない。ここで父の手記の一部を引用するとして、「…幕末嘉永に生を享け“眼に一丁字も”もたなかった母が紀州の寒村に嫁いで、気難しかった父の面倒とともに5人の子供をかばいつつ育て、一生忍従の生活であった女性が、美術を志す次男を慈愛の眼で庇い、いま又その孫まで同じ美術の途を研鑽するという…。これも偶然があるだろうが、それは決して偶然とはいえない。自分には何か大きな力がそこに働きかけているとしか思えない。…」という一節があって、万感胸の詰まるおもいで読んだ記憶がある。私はその瞬間、筆マメだった父は3年の巴里留学中、どれほど想いの丈を母を相手に文通したかったことかと、ふと、その後につづく私への執拗なまでの父からの書信を考えると、父が果たせなかった母への想いを息子の私へ置きかえて対象にして、あの様に濃密で厖大な量の私信を送り続けてくれたのではなかったかと考えることがあり、それはほぼそう考えるのが適切ではないかと考えている。その父も生前、母との再会を果たしていないことも、私達父子は運命的である、と言えようか。私と父との手紙の交換はこの時から既に始まる途筋が決められていたように思う。事実私の父への文通は乗船後から始まり、南仏に到着までも、その後も10年を通して間断なく続けられることとなる。その間、生涯の伴侶との出逢いを父はどれほど認め、よろこんでくれたことか。「つねに異性に対してヨロメイていたお前にも漸く救いの女神が現れたというのか。これをどれほど感謝の気持ちで迎えたことか…」とまで通信をくれたことがある。その伴侶と孫を父の手に抱かせられなかった私の不甲斐なさを痛恨のおもいで振り返ることが多い。年とともに今終焉を前にして父を想い、悔恨の想いがつのるのを実感する。
おそらく最後の個展となるだろう今回の南天子画廊での展覧会に合わせるように、折しも先日、ふと遠いむかし夏の清涼な朝の一時を私の為にポーズしてくれた父の胸像の在り処を想い出し、画廊主にそれを告げると当時下宿していた谷中の天王寺の古い茶室に出向いて持ち帰ってもらった作品を加えて展示することが出来たのは幸運であった。父はその手記の中で、その昔日の朝の一時が息倅のために奉仕出来た幸せな時であったと述べてくれている。
- 休催日
- 日曜
- 開催時間
- 10:30A.M. ~ 6:30P.M.
イベント情報
オープニングパーティー
9・24(Tue) 5:00P.M.→7:00P.M.
会場情報
登録日:2013年9月17日