■1905年(明治38)9月5日、アメリカのポーツマスにおいて、講和条約が調印され、およそ2年におよんだ日露戦争は終結しました。同じ日、東京の日比谷公園には、この講和条約の調印に反対する数万の民衆が集まっていました。新聞などによる連戦連勝の報道を信じていた一般の人々にとって、賠償金の要求を放棄したこの講和条約の内容は、とうてい受け入れがたいものだったのです。増税などにより逼迫感を強めていた彼らの不満は、この日比谷公園で行われた講和条約反対国民大会をきっかけに爆発し、首都・東京における最初の民衆暴動、日比谷焼き打ち事件を引き起こしました。
■当時、早稲田大学の学生であった生方敏郎(1882―1969)は、暑中休暇のため郷里の群馬に帰省していましたが、そこでも暴動の様子は連日の新聞で伝えられ、息子の身を案ずる母の助言で、上京を数日遅らせたそうです。東京に戻った後、友人らから事件当夜の様子を伝え聞いた彼は、東京の混乱ぶりを次のように書き残しています。「中には逃げそこなって巡査の剣がほとんど背中に触ったというものもあり、逃げてドブに落ちた者もあり、見物に出て捉えられ留置所に留められた者もあった」(生方敏郎『明治大正見聞史』)。
■1889年(明治22)の大日本帝国憲法発布、翌年の第一回帝国議会の開会と、近代国家としての態様を整えつつあった日本の、東京はその首都として姿を変えつつありました。憲法発布のような国家の重要な出来事を祝う場として、新しく造営された「宮城」を中心に、上野公園や青山練兵場、日比谷公園などが祝祭の空間として機能しはじめました。日進・日露という、「一等国」を目指す日本が経験した対外戦争の戦勝の興奮も、こうした祝祭の空間において繰り広げられました。日比谷焼き打ち事件は、このような祝祭の延長線上に、実はあったのです。
■今年、日露戦争開戦から100年となりました。本展では、この戦争が、首都・東京とそこに暮らす人々に残した「記憶の様々(メモリアル)」を取り上げ、維新の混乱を脱し、国際社会の中における地位の確立を目指した明治日本の姿を、人々の苦悶の跡とともに振り返ります。