熊沢古篷(くまざわこほう 1861-1934)は、本業の医者としての活動の傍ら、写生的な日本画を数多く残した人物です。尾張藩士の子に生まれた古篷は、18歳で医学をこころざし、矢場町で町の医者として開業。のちには名古屋市医会長など多くの公職をつとめました。その一方で、日本画を描き、和歌を詠み、篆刻もよくするという余技を持っていました。なかでもその絵画作品は、素人の域を超え、見るものをひきつけます。
一般にはほとんど無名の古篷の画風は、伝統的な日本絵画の系譜に連なるものですが、しかし、単に心地よい「花鳥風月」を描くのではありません。写生・写実を基礎にした濃密な画面は、本草学的な印象を与える一方で、それは単なる写実を越えています。医者という事実に即したことに従事する人ならではの画風といえるかもしれません。花鳥画を得意としましたが、風景、人物、さらに軽妙な俳画と画技の幅は広く、バリエーションに富んでいます。
大正・昭和の日本画の実力者佐藤空鳴(さとうくうめい)との合作を残すなど、画壇とのつながりもあったようですが、絵の基本は独学でした。そして、この古篷の、余技としての創作活動は、自娯、適意を特色としたかつての文人画と基本的に同じものです。古篷の妻三樹の父が不二見焼を始めた尾張藩士村瀬八郎右衛門美香、古篷の第四子が徳川美術館館長を務めた熊沢五六であることを思えば、古篷はなるべくしてなった文人といえるかもしれません。自らの楽しみのために描くという、純粋な動機で作られた作品を紹介します。お楽しみください。