タイトル等
ペインタリネス2021
石川祐敏 圓城寺繁誉 河合美和 岸本吉弘 善住芳江 真木智子 渡辺信明
【テキスト 尾崎信一郎】
会場
ギャラリー白 ギャラリー白3 ギャラリー白kuro
会期
2021-09-06~2021-09-18
休催日
日曜休廊
開催時間
11:00~19:00
(土曜17:00まで)
概要
風景としての「ペインタリネス」、ふたたび
尾崎 信一郎
2年ぶりの「ペインタリネス」を開催する。これまでにも開かれなかった年があったとはいえ、展示が予定されていたにもかかわらず延期されたのは昨年が初めてであった。いうまでもなく新型コロナウイルス感染症が蔓延したためであり、その脅威は現在も続き、この文章を書いている時点においても虚言と贈賄で手に入れた恥ずべき「東京オリンピック」を脅かしている。
私自身、今年このテクストを書くことには逡巡があった。私は国内で一番感染者が少ない県で生活しているため、感染してはならないという無言の圧力が強く、職場では緊急事態宣言が発出されている地域への出張が禁止されていた。このため私は出品者たちの最近の発表を実見しておらず、果たして彼らの絵画について語る資格はあるかという思いがある。
しかしこの一方、一年余りのステイホームを強いられる中で私はペインタリーな絵画について集中的に考える機会を得た。戦後アメリカ美術について論じる比較的長い論文を書き進めながら、私はそこで検証している問題がこの展覧会に出品される絵画と深く結びついていることをあらためて思い知った。それは風景としての絵画という主題だ。決して新しいテーマではない。それどころか私は「ペインタリネス2018」に寄せた文章の中ですでに次のように記している。「私はペインタリーな抽象絵画に関してここ数年感じてきた一つの趨勢について論じてみたいと考える。それは風景というモティーフの出現である」今となればこれは舌足らずな表現であったことがわかる。風景はモティーフ=描くべき主題として導入されたのではない。私が指摘したい点はそこに描かれたモティーフが木立や草木の繁み、あるいは地平線を連想させることではない。これらの絵画に眼差しを向けることによって成立する「風景」という認識の枠組こそが重要なのだ。しかし後述する通り、自らもその一部として組み込まれる時、この枠組は意識されにくい。文学の分野においては奇しくも「風景の発見」と題した一文の中で柄谷行人がこの点を次のように記述している。「風景とは一つの認識的な布置であり、いったんそれができあがるやいなや、その起源も隠蔽されてしまう」
それでは何が風景を成立させるのか。「ペインタリネス2018」の時点で私はすでに一つの答えを得ていた。それは画面の前に直立する人、すなわち絵画を見る者の存在であり、画面の垂直性と(画廊という空間の制約によって今回の展示からは必ずしも明らかではないが)身体を超えた広がりによって保証される。この場合、見る者とは画家であり、観者でもある。風景としての絵画は人がその前に立つことによって成立する。さらに戦後アメリカの抽象絵画を検証する過程で、私はもう一つの重大な契機を確認した。すなわち絵画の時間性だ。マーク・ロスコが典型であろう。ロスコの直立する巨大な画面はその前に立ち、眼差しを向ける者の存在を強く意識している。さらに私たちがロスコの絵画から受ける深い感銘は一定の時間、絵画を凝視することによって感覚が研ぎ澄まされ、あたかも色彩が滲み出てくるような特殊な知覚を経験することに由来するだろう。その前に人が立つことによって成立し、時間の経過の中で深められる絵画、それは風景の体験と似ていないか。しかしこの時、絵画を見る者自身が風景という枠組の起点であるために、モティーフではなく枠組としての風景、絵画のモデルとして風景をとらえることは困難とならざるをえない。
ここに出品する7名の作家たちの作品は濃淡こそあれ、いずれもこの問題と関わっている。多くの作品において垂直性もしくは軸性が強調され、厚塗りで多層化された画面は視線の走行に抗い、作品の享受にあたって一定の時間を必要とする。今回の展示にあたって作家たちからコメントが寄せられているが、自然や風景、時間といった言葉が含まれている点ははしなくもこのような特性と関係しているだろう。私は風景という本来ならば視覚的で非実体的な枠組が、これら触覚性の強い、物質的な画面をとおして成立する矛盾を興味深く感じる。何度か述べたとおり、私たちの展覧会のタイトルであるペインタリー(絵画的)という概念はハインリヒ・ヴェルフリンに由来し、リニア(線的)の対義語である。ペインタリネスとはルネッサンス絵画ではなくバロック絵画に擬せられ、不明瞭で開かれた形式であるが、ここに並べられた絵画もまさに不明瞭かつ開かれている。明晰な形象が描かれることはなく、形象は画面の物質性と格闘するかのようだ。そして風景という枠組が示すとおり、見る者もまた絵画の中に包摂され、絵画は現実の場に向かって開かれている。
風景としての美術について沈思する中で、私はこのような作品の在り方が決して特殊ではないという結論に達した。少なくとも私が専門とするアメリカの戦後美術において、風景としての美術という作品の在り方は抽象表現主義からポストペインタリー抽象、そしてミニマル・アートにいたるメインストリーム、一見ばらばらな動向を貫通している。これは作品を自立した価値の源泉とみなすフォーマリズムの視点に立つ時、決して把握しえない事態であり、モダニズムの美術史観に対する一組のオルターナティヴを提起する。
奇妙に感じられるかもしれないが、このような発見の機縁となったのは、もはやモダニズムの終焉が語られることさえない21世紀、大阪というモダニズム美術の辺境で着実に積み重ねられてきたこの展覧会であった。ここに出品した作家たちがぶれることなく続ける探求を書き留めるための言葉を探す中で、私は前世紀中盤、絵画が最も強度を帯びた時代との共通性に想到したのである。「ペインタリネス」、四半世紀ほど前、かつてのギャラリー白のオーナー、鳥山健によっておそらくは偶然的に命名された展覧会のタイトルがかくも豊かな含意を秘めていたことに私は今さらながら驚く。
(おさき・しんいちろう 鳥取県立博物館館長)
会場住所
〒530-0047
大阪府大阪市北区西天満4-3-3 星光ビル2F
交通案内
●JR大阪駅/地下鉄梅田駅より約15分
●京阪/地下鉄淀屋橋駅1番出口より約10分
●地下鉄南森町駅2番出口より約10分
●京阪なにわ橋駅1番出口より約5分
ホームページ
http://galleryhaku.com/
会場問合せ先
06-6363-0493 art@galleryhaku.com
大阪府大阪市北区西天満4-3-3 星光ビル2F
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