石川確治(1881-1956)は山辺町出身の彫刻家です。旧制山形中学を卒業後、東京美術学校彫刻科で学びます。東京美術学校では石川光明に師事しました。東京美術学校卒業後は東京帝国大学文科で心理学を学び、再び東京美術学校で彫刻を学びます。
新進気鋭の彫刻家として期待された石川は1908年、第2回文部省美術展覧会(以下文展)に初入選を果たし、2年後の1910年、第4回文展では褒状を受賞します。その後も入選、受賞を重ね、1920年、第2回帝国美術展覧会(以下帝展)では推薦作家に選ばれます。1922年、第4回帝展では審査員を務め、その後も展覧会委員に任命されるなど、文展・帝展を中心に活躍しました。石川は自分の作品を発展させるため、東洋の有史時代からの彫刻作品を研究し直し、『支那上代彫刻』を刊行します。そしてその研究の成果として1934年、第15回帝展に≪瑞桃≫を出品します。薄肉彫りに彩色を施した作品は石川にとって会心の作となりましたが、帝展審査員からは期待どおりの評価を受けることができませんでした。それでも石川はその後も彩色を施した作品を多く発表しました。
石川は東京美術学校在学時に、熊谷守一や青木繁らが学ぶ油彩画科に足しげく通い、油絵の技法を学びました。このため、石川は絵画作品も多く残しております。
また、1934年頃から山形市平清水窯の要請を受け、平清水焼に絵付けを施すようになります。そこで石川は平清水焼の陶土に朝鮮半島で制作された三島と呼ばれる陶器との類似性を感じ取り、彫三島を逆転させたような模様を平清水焼に彫りこみました。
さらに、1900年頃から短歌の制作をはじめ、1926年頃には、帝展仲間の平福百穂から紹介を受けて斎藤茂吉に師事します。そして、1944年に歌集と画集を兼ねた『山澤集』を発表します。その後も短歌の発表は続き第2歌集「林野集」を刊行すべく準備を進めていましたが、病に陥り刊行には至りませんでした。
彫刻、絵画、陶芸、短歌と幅広い分野で活躍した石川でしたがその業績を網羅する形で顕彰する機会はありませんでした。本展では、石川の業績を可能な限り紹介しようと試みるものです。
さらに、石川の妻照(石川光明、三女)は丹麗と号し、大正期から女流画家として帝展、院展等で活躍しました。この石川丹麗についても調査半ばでありますが、作品を紹介いたします。