なぜ、いま「書」なのか― 石川九楊展の開催にあたって
石川九楊先生によれば、東アジア漢字文明圏において書は美術であるよりむしろ文学に属するという。美術は書から派生。ゆえにわが国で絵画は洋画や現代
アートでさえ文学として読まれてしまいがちだとか。一方、アルファベットという声音文字をもつ西洋では、音楽から美術が派生。そのため純粋な造形が成りたつのだという。
「筆尖と対象との間の接触と抵抗と摩擦と離脱であるところの筆蝕に従って思考しつつ詩や文はつくられていく。いわば、筆蝕が思考するのだ。…おそらく、『書は筆蝕の美である』ととらえれば、書についても文学についても、数々の疑問は氷解するはずである」。ワープロ文字全盛のこんにち、まして千年もの昔から世界で唯一3種もの文字、すなわち漢字に加え平仮名とカタカナを駆使する私たち日本人であってみれば、今こそ「書」を見直さなければならない。
石川先生は、執筆や講演などのときと書の制作のおりでは使う脳がちがうと言う。そして、講演などのあとで制作はしづらく、その逆ならじゅうぶんに可能だとのこと。あくまで書が優位に立つということか。
かつて「一流の思想家で二流の詩人」と評される作家がいた。だが、この度は古川美術館さんと私どもの二会場において、超一流の書家と超一流の思想家が一如となった世界が開示されるのである。 中山真一