郷土の芸術文化史を見直し、庄内にゆかりの作家を取り上げて紹介する展覧会です。シリーズ第14回となる今回は、明治に生まれ大正から第2次世界大戦後にいたる激動の時代に、伝統的な書画を心得とした松平穆堂と土屋竹雨、そして明治以降の庄内における書道の礎を築いた先人、黒崎研堂を取り上げます。
黒崎研堂(嘉永5年~昭和3年)は、庄内藩家老を務めた酒井了明の3男として鶴岡に生まれました。名を馨といい、戊辰戦争の折には僅か16歳で出陣し、明治元(1868)年に黒崎家の養子となります。維新後、旧藩士らと鹿児島に学び、のち松ヶ岡開墾に従事し、また荘内銀行の前身のひとつである済急社の社長や町会議員を務めるなど政財界に貢献しました。一方で、幼少の頃より書に秀で、書道界の第一人者、日下部鳴鶴が鶴岡に来た際に入門し、研鑚を積んで松平穆堂や吉田包竹などの優れた書家を育てました。
松平穆堂(明治17年~昭和37年)は、旧庄内藩士塚原権平の2男として松ヶ岡に生まれました。名を末吉といい、幼くして父親を亡くしたため、黒崎研堂の世話になって書道をはじめとする学問を学びました。山形師範学校卒業後、尋常高等小学校や高等女学校で教鞭をとり、その間、明治41(1908)年に松平定子と結婚して松平家の養子となりました。大正5(1916)年、松平穆堂は教諭を依願退職し、中国に渡って約11年間書道研鑚に励みます。その後帰国すると、書道同好会(のちに鶴岡書道会と改称)を結成し、また鶴岡高等女学校で教鞭をとって書道教育につとめ、昭和24(1949)年には第1回荘内書道展覧会を開催しました。書を極めるとともに漢詩への知識も深く、今もたくさんの遺墨を庄内の地で目にすることができます。
土屋竹雨(明治20年~昭和33年)は、土屋久国の長男として鶴岡の家中新町に生まれました。名を久泰といい、荘内中学校を卒業後、旧制第二高等学校を経て、大正3(1914)年に東京帝国大学法学部を卒業しました。幼少のころより漢詩を学び、大東文化協会出版部に務めてのち、昭和3(1928)年に芸文社を創立して漢詩文活動を広めました。漢学、漢詩については当代第一人者とされ、独特の書風と絵で詩書画に通じ、大東文化学院講師、同学院教授を経て学院総長となりました。第2次世界大戦中の昭和20(1945)年には、一時鶴岡に疎開し、松平穆堂らと交友を深めており、郷土にも漢詩や書画を多く遺しています。昭和24(1949)年には、大学制度により新設された東京文政大学(現、大東文化大学)の初代学長となり、また同年日本芸術院会員になっています。
彼ら3人の作品はこの地域に多く遺されておりますが、本展覧会では致道博物館と荘内南洲会の所蔵品を中心に、詩書画を書いた屏風や掛軸を約60点展覧いたします。