青木繁の「情熱」、モネの「光」、マティスの「響き」、そして富岡鉄斎の「心」で描いた画家
「音楽のように色彩(気韻)で、生き生き(生動)と絵を描きたい!」
正宗得三郎は、昭和37年(1962)79才まで片時も休まず制作を続け、誰も到達できない独自の高みへと至りました。
得三郎は、明治16年(1883)に穏やかな瀬戸内海に面する岡山備前市の、文芸を愛する旧家(長兄は小説家正宗白鳥、次兄に国文学者正宗敦夫)に生まれ、はじめは日本画家を、つぎに油彩画家を志し東京美術学校に入学しました。一学年上の明治の天才画家青木繁から、絵画に対する「情熱」のその激しさを学びました。卒業後、渡仏し、モネからは、直接出会って「光」を、さらにマティスからは、「色彩」の響きを学びました。
しかし、第一次大戦では、留学を中断され、中野に建てたアトリエも太平洋戦争の空襲によって、作品は全て焼失。やむなく知人を頼り長野県飯田に疎開。信州の豊かな山河に囲まれ、馴れない畑仕事に汗を流すうちに、季節に輝く山河の彩りと山里の人々の深い温もりに接しました。西洋に学び、南画を愛し、山里に暮らしたことで絵に変化が生まれました。戦後から没年まで武蔵野の緑豊かな府中を描き続けたのでした。正宗は、最後の文人画家、富岡鉄斎の作品を研究し、日本の風景を、明るく澄んだ色彩で、柔らかな「心」の理想郷として油彩画に描きました。
年下で無名の長谷川利行の絵をどうしても評価しない審査委員に、「この絵は、私たちの先生の絵だ」と激しく主張し、頬を紅潮させた画家。
先人に学び、誰の評価も求めず、ただ一人、我が道を絵に描き、描いた道を歩み続けた画家。
二科会、二紀会の重鎮でありながら、頑として絵と向き合い続けた画家。
正宗の戦中の飯田時代、戦後の府中時代の作品約100点で構成し、皆様のご来場をお待ちしております。