戦後、<もの>にとらわれない抽象的な表現を追い求め続けた清川泰次(1919-2002)にとって、昭和という時代はどんな時代だったのでしょう。
清川が出身地の静岡県から上京し、慶應義塾大学経済学部の予科に入学した昭和11(1936)年は、「二・二六事件」が起きた年でした。大学入学後まもなく体調を崩した清川は、しばらく休学し、その間に写真と油絵の制作を始めました。再び大学へ通い始めた昭和16(1941)年、太平洋戦争がはじまります。清川は教育召集で軍隊生活や勤労奉仕などを経験し、大学を卒業したのは、太平洋戦争も末期となった昭和19(1944)年、25歳の時でした。清川が学生として過ごした時期は、まさに日本が戦争へと突き進んでいった時代と重なります。
本展では、絵画作品とともに、昭和13(1938)年頃から戦後間もない昭和21(1946)年までの間に清川が撮影した白黒フィルムを、新たにプリントして展示します。これらは、大学の写真部に所属していた清川が、写真の勉強のために構図や撮影方法などを工夫しながら、日常生活を題材に撮った写真です。普段の営みのなかで、市井のひとりとしての視線から身の周りの物や、家族や知人、街などが捉えられています。そこには、今も変わりない日常風景から、戦争の暗い影が読みとれるものまで、当時の社会を映した時代の断片が記録されています。
終戦の直前に結婚した清川は、妻の実家のあった静岡県の二俣町(現・浜松市)でしばらく生活した後、昭和24(1949)年に、現在、当館が建つ世田谷区成城に居を構えました。戦後の清川は、写真からは離れ、画家として本格的に絵画制作に取組むようになります。200号の大作《イエロー・バランス》(1951年)を中心に、戦争という激動の時代を過ごした清川が、<もの>から解放された抽象的な自由な世界へと向かっていったその後の足跡もご紹介します。