物自体という言葉がある。これには、感覚を手掛かりにしている限り、迫りようはない。以前にも書いたが、2000年10月以来、わたしはものにはある距離以上には近づき得ないこと、ものそのものを知り得ることは決してないと思うようになった。とはいえ、知り得ることのできない当のもの、物自体というものがあることも確かな感じとしてあるのであった。そして、たとえ今「見えているもの」がわたしの中にある経験的な「ものの見方」が組み立てたものであるとしても、そうした確かな感じがこうした「見え」を揺さぶるのである。
わたしは振り出しに戻ってきた。わたしに「見えているもの」ははたしてそのものが「あるように」見えているのだろうか…たぶん見えていない。だが、そのものへ至るにはいま「見えているもの」を使い、わたしの「見方」を揺すぶっていくしかないのである。
(ウラサキミキオ 2015年、コンセプトノートより抜粋)