世界的に活躍する墨象作家、篠田桃紅にとって墨とは、制作の道具以上の存在である。その存在のもとは、さびしく幽かなもの。老子はそれを「玄」といい、人生と宇宙の根源で、それは真黒ではなく、幽かに明るい「くろ」と云った。
「ほんとうの"くろ"(玄)は真っ黒ではない、という考え方が、私にはたいそう気に入る。一歩手前でやめる、という、そのあと一歩に無限のはたらきを残し、それはわが手のなすところではなく、天地自然、神、宇宙、とにかく人間のはかり知れない大きな手にゆだねる、そういう考え方がこのましい。このましいが、一歩手前がまことにむつかしい。」と桃紅は語る。
桃紅の墨象作家と云われる由縁は、既存の書の枠を超え、墨を使って独自の抽象スタイルを確立したところにあるが、純粋にかたちを追うことに主眼をおいた抽象の世界に留まらず、書と抽象の世界を跨ぎ制作を続けてきた。それは桃紅の書に対する深い造詣と切り離すことはできない。きびしく抑制された筆の動き、余白の美しさ、単純化された線と面、それは桃紅の鋭い、卓越した造形感覚によるところもあるが、彼女が書家であったという事実と無縁ではない。
さて、篠田桃紅という人の魅力に迫るためには、まず彼女の人生について語る必要があるだろう。
1913年、旧満州国大連で生れた桃紅は、母親の胎内にいるときから中国大陸の雄大さと国境に縛られない自由な風土を学びとっていく。子供のときから決まりきったことを嫌い「学ぶことは真似ること」という当時の教育に真っ向から反発し、自由にものを見て、発想する力を養っていくのである。
書家、下野雪堂に師事したのち、既成の書にとらわれない独自の抽象芸術を模索し、1956年に単身渡米。ジャクソン・ポロックやマーク・ロスコーなど、後の抽象表現主義のスターとなる作家を輩出したベティ・パーソンズ・ギャラリーで個展を開催。世界の芸術の中心地であったニューヨークからその作品は世界へと発信されていった。 「時の人」となった桃紅は、増上寺大本堂ロビーの壁画制作や第6回サンパウロ・ビエンナーレへの招待作家に選ばれるなど、その後の活躍には目を見張る。また、「Newsweek」誌(2005年10/26号)の特集で、「世界が尊敬する日本人100」の一人として選出されたことが桃紅の名前をさらに知らしめることになる。
桃紅にと・・・