中国の清時代(1616-1912)も19世紀になると、学問の進展を背景に、新しい書風が生み出されました。その中心的な役割を果たした人物が、趙之謙(1829~84)です。
趙之謙は、紹興の裕福な家に生まれましたが、少年の頃に家が破産し、貧しい生活を強いられます。その後、省の司法長官繆梓のもとで見識を広め、官僚の登用試験である科挙の1次試験に合格します。しかし、太平天国の乱が杭州に及ぶと、繆梓は戦死、妻と娘も亡くなり、紹興の自宅も焼失してしまいます。
翌年以降、繰り返し科挙の2次試験を受験しましたが、ことごとく失敗、ついに中央政府の高級官僚となる夢を断念します。地方役人の地位を得た趙之謙は江西(こうせい)省の南昌(なんしょう)に赴任、地方史『江西通志』の編集事業を完成します。その後は県の行政長官として、江西省の各地に赴任しますが、過労がたたり56歳で病没しました。
深い学識を持ちながらも、報われない境涯。理想と現実のはざまで、趙之謙は胸中の想いを、独特の詩情をたたえた書・画・篆刻に昇華しました。
科挙を受験するため北京に赴いた際、胡じゅ(1825~72)・沈樹鏞(1832~73)・魏錫曾(?~1881)らと出会い、当時脚光を浴びていた金石学に没頭し、趙之謙の作風は大きく変化します。とりわけ北魏時代(386-534)の書に触発され、やがて「北魏書」という未曾有の表現を確立しました。中国古代の文字を学び、新しい書風を導いた碑学派は、趙之謙の出現によって全盛期を迎えたといっても過言ではありません。
この特集陳列は、趙之謙の生誕180年を記念し、趙之謙の作品に焦点をあてながら、清時代の書の後半を飾る碑学派の歴史を窺おうとするものです。東京国立博物館と台東区立書道博物館との連携企画第7弾。後世に大きな影響を与え、今なお多くの人々を魅了する趙之謙の作品を紹介します。