弘化3年(1846)、10代薩摩藩主(27代当主)島津斉興が始めた薩摩のガラス製造は、次の斉彬の代になって飛躍的な成長を遂げました。斉彬の開明的な考えを受け、西洋科学の積極的な導入を図った鹿児島の工場で、鎖国体制のもと、蘭学から得た知識を生かしイギリスやボヘミアのカットガラスなどを参考にして、薩摩切子は製作されました。その後、斉彬が急逝し、さらに文久3年(1863)の薩英戦争で工場が破壊され、ガラス製造は急速に衰退してしまいます。
切子というのは、カットガラスのことを意味しています。江戸時代後期―19世紀の初め頃から厚みのあるガラス器にカットを施すことが、日本でも本格的に行われるようになりました。しかし、当時のカットは、欧米や現代の復元品に見られるように回転するグラインダーで切り、磨くのではなく、細長い鉄の棒に水で溶いた金剛砂を付けて根気よく文様を切り、さらに木の棒で磨き出していくという気が遠くなるような方法でした。こうした手作業による手彫り切子の製作に力を注いだのが薩摩藩で、とくに無色のガラスに紅、藍、紫などの色ガラスを厚く被せかけ、文様を削り出していく独自の色被せ切子を完成させました。当時の薩摩切子は、高価で数も少なく、今ではまぼろしのガラス器となっています。幕末の一時期、一瞬のきらめきを放って生み出されたガラスの珠玉―薩摩切子。本展では、コーニング・ガラス美術館からの里帰り作品、徳川宗家に伝わる天璋院篤姫が愛した切子、無色の薩摩切子、薩摩切子に影響を与えたと推定されるヨーロッパ製カットガラスなど、あわせて約160件を、アメリカ、日本全国から集め、一挙公開します。
日本のガラス工芸が到達した至高の美をぜひ御覧ください。