木下孝則は、大正末に二科会に初入選した後、エコール・ド・パリ全盛のフランスに洋画研究の目的で留学した。当時のパリ画壇の影響のもと、マネやクーベル、ブラマンク、マチスといった近代絵画の巨匠の画風を学びながら所期の作風を作成し、帰国後は、二科会と春陽会を中心に、留学の成果を示す伸びやかな写実画を発表した。
一方、木下孝則が画業の緒についた戦前期の洋画壇では、大正期に勃興した信興美術運動のあとをうけて、前衛定な傾向を示す様々な動向、たとえば、プロレタリア美術運動やシュルレアリスムが画壇を席巻していった。こうした時代背景のもと、木下孝則は、昭和元年(1926)、パイで信仰を結び、エコール・ド・パリの自由精神と個性主義に感化された前田寛治・佐藤祐三・里見勝蔵・小島善太郎とともに「一九三〇年教会」を創立する。一九三〇年教会は、フォーヴィスムの影響を色濃く示す独立美術教会の創立にともない解散するが、その頃、ふたたびパリにあった木下孝則は同会の創立にかかわらず、さらに昭和10年代に入り、所属する二科会で前衛的な動向が顕著になってくると、同会をも退会する。その独立美術教会や二科会を母胎にして日本のシュルレアリスムが生成し、やがて画壇を席巻するが、戦争へと時局が変転していくなか、前衛美術は厳しく弾圧されていくことになる。
木下孝則は、こうした戦前期の前衛と常に一線を画し、自らの資性にかなう写実表現を追及すべく、昭和11年(1936)に「一水会」の創立に加わった。戦争画を手がけなかった木下孝則は戦時中、画業の空白を余儀なくされるが、戦後は、一水会と日展に、練達した技巧による写実画を示し続けた。その画風は、昭和に入って戦争をはさみ、著しい発展・復興を遂げた横浜と東京の都会的な感性に根ざしており、とりわけ多く描かれた婦人像や肖像画には、昭和という時代が体現するある種の気品を認めることができるだろう。日本の近現代美術は、めまぐるしく展開する前衛的な動向を中心に記述される傾向がつよい。この展覧会は、木下孝則の代表的な作品群でその画業を回顧するとともに、木下が結成に参画した一九三〇年教会と一水会の創立会員の作品を合わせて展示し隠健な写実表現に根ざした日本洋画の一側面を示すものである。